

南区は山地が大部分で、近隣の水営川と東川流域を中心に農耕生活が始まったと仮定してみれば、石器時代や青銅器時代には人が住んでいなかったか、住んでいても極少数ではなかったかと推測できるが、現在まで記録として正確に残っているものはない。南区に関連した最初の記録である『三国誌』「魏書」によれば三韓が70余りの小国に分立されていて、この中、弁韓が12国であると言われているが、ここに登場する居柒山国(コチルサン国)は現在南区の主山である荒嶺山のハングル読みである‘コチンメ(荒い山) 居柒山’と関連して解釈されたりする。そして『三国史記』居道列伝に“新羅脱解王の時、居道が干になり于尸山国と居柒山国を滅ぼした”という内容と、竜塘洞にある神仙台と関連して“新羅末に崔致遠先生が神仙に
なってここでのんびり暮らした”と言い、山の頂にあるムゼドンという岩に神仙と神仙が乗った白馬の足跡があったという俗説があり、その名もこの説から由来したという話が伝わっている。高麗王朝に来ては高麗末期の名将、崔瑩が“戡蠻洞に浸透した倭の軍を撃退させたという俗説と共に、その功績を称えるために現在、戡蠻1洞に武愍祠という祠堂があって、今も毎年将軍の功徳を称えるために香を炊いている”という民間口伝野史がある。朝鮮王朝に入っては竜湖洞の二妓台と関連し“壬辰倭乱の起きた時、倭軍が水営城を陥落し、付近の景色の良いところで祝いの宴会を開いた時に、水営のある芸妓(妓生)が自ら進んでその宴会に侍り、倭将を泥酔させて倭将を抱いて海に入水したので場所の名前が義妓台と付けられた”という話が伝わるなど、南区は三韓時代から時代交々歴史的な説話が絡み合っている由緒ある歴史の町である。

歴史上に名を残している人物はさほどなく、地域的区分が難しいが、南区周辺の人物を紹介すれば、まず高麗王朝18代,毅宗時代の人物である鄭敍(号瓜亭)を挙げることができる。広く知られている「鄭瓜亭曲」は忠臣が王を思慕する内容で、高麗歌謡の中で唯一、作者が明らかな歌で高等学校教科書に掲載せられている国文学的意義の大きな作品である。南区近隣の望美洞に‘瓜亭路’ という道路もあり、彼が住んでいたところは詩碑が立っている。そして南区近隣の水営出身で漁民にすぎなかったが、朝鮮王朝の肅宗時代に鬱陵島と独島を朝鮮の領域であることを日本の幕府に確認させて、その証拠書類を持参して来た安龍福将軍がいる。彼は当時は罪人扱いをされたが現在では水営公園に忠魂塔があり、鬱陵島の鬱陵公園にも忠魂碑がある。近代の人物としては竜塘洞一円に合板王国を建設して国家経済復興の一端を担った東明グループの首脳姜錫鎭会長がいる。家具工場の見習いから合板木材界の一人者になった優れた人物で、慶尚北道の清道出身で晩年には東明学院を設立し、東明仏院を立て,各種奨学事業と地方銀行である釜山銀行の設立にも先頭に立つなど、地域経済と発展に多くの功績を残した。そしてもう一人は慶尚北道の奉化で生まれ、牛岩洞に盛昌合板を設立して合板業界の先駆者として釜山の経済と国家経済の発展に貢献した、ジョンテソン鄭泰成会長である。彼は企業経営者として大きな業績を残して、学校法人聖知学院の設立許可を得て聖知中・高校と釜山外国語大学を次々設立し、語学分野の養成にも大きく寄与した人物として評価されている。

南区は文化の町である。豊富で秀麗な自然資源を背景に観光資源活用の妙を駆使している。五六島を中心に二妓台と神仙台は昔から伝わってくる多くの説話を抱いて、今まで多くの人達に愛されている。また釜山の文化を守りつつ新しい文化を発掘している釜山市立博物館を初め、釜山公演文化の産室である釜山文化会館に至るまで、釜山文化を引っ張って行く中枢的役割を果たしている施設はすべて南区に位置している。

国家指定文化財(国室)
第200号, 大淵4洞 948-1 釜山市立博物館
永泰2年銘 蠟石製壺 第233号, 大淵4洞 948-1 釜山市立博物館
市指定定文化財(記念物)
約條制札碑 第17号, 大淵4洞 948-1 釜山市立博物館
斥和碑 第18号, 大淵4洞 948-1 釜山市立博物館
東莱南門碑 第18号, 大淵4洞 948-1 釜山市立博物館
五六島 第22号、竜湖洞936番地~941番地
神仙台 第29号、竜塘洞 山 170番地 一円