

釜山の東南側に位置している南区は、東北側からは大南路を境界に水営区、西側は東川を境界に東区、西北側は荒嶺山を境界に釜山鎭区と接しており、南側は釜山湾、東側は水営湾で大洋に接している。南区地域は三韓時代には弁韓に属し、その後は居柒山国に、三国時代には新羅の領土で大甑縣に、統一新羅景徳王の時代、大甑縣は東平縣にその名が変った。高麗初期である顯宗9年に東平縣が楊州郡の属県になって、朝鮮初期には東莱鎮に、朝鮮後期には東莱府の東面と南村面に所属した。その後日本植民地時代である1914年行政区域再編成の際、東莱郡の西下面と竜洲面に属し、1936年4月竜洲面と南面一部が釜山府に編入されながら新設された釜山鎭出張所(大淵,竜湖,竜塘,牛岩,戡蠻洞など管轄)となり、1942年10月東萊郡の
水営と海雲台一部が釜山府に編入し、水営出張所(現水営区)が設置された。政府樹立後である1949年8月市制実施で釜山市に属され、1953年9月大淵出張所所属に変わってから1957年1月区制の実施の際、釜山鎭区大淵出張所所と東萊区水営出張所になったが、1973年3月2ヶ所の出張所が合併され市直轄大淵出張所に昇格し、また1975年10月1日南区に昇格して18個の洞を管轄することになり、1988年5月に全国に自治制実施で自治区になって30個の洞を管轄するようになった。1995年3月区域編成で南区の一部が水営区(広安、望美、民楽など10個洞)に分離され今日に至る。


1970年代に入り産業化、工業化の波に乗るまでは南区地域は教育分野では未開の地のようなものであった。南区地域の教育は朝鮮時代、開港期、日本植民地時代、解放後1960年代に至る長い歳月と、それまで紆余曲折の歴史的激変にも関わらず、東莱教育圏と釜山市内教育圏の影響を受けるのみの教育の辺境地帯として長い間取り残されていた。しかし1970年代に入って釜山の人口が急激に増え都市が膨張するに従い、南区地域が釜山の教育中心地として徐々に注目を浴びてきた。それまでの農・漁村地帯で未開発の土地が比較的に多く、自然景観が他の地域と比べて優れ、市内地域とそれほど遠くないという地理的な条件が、教育機関の敷地に適合な土地に脚光を浴びせるようになったのであう。それで1970年代中盤以後、この地域
に初・中・高等学校が密集して設立され始めた。こうした傾向は1980年代にもっと加速化され、日本植民地時代には初等学校が4校、高等教育機関は今の釜慶大の全身である釜山水産学校一校しかなかったが、80年代後半には初・中学校が 乱立するようになった。1990年に入って南区地域は教育面でまた大きな変化を齎すようになった。初・中等学校密集地域から高等教育機関の密集地域に変化するようになったのである。釜慶大学(釜山水産大と釜山工業大)、釜山外国大学、慶星大学、東明情報大学などが続いて従来の単科大学から総合大学に昇格したり、他の大学と統合、あるいは新設され、南区が釜山市内で高等教育機関が一番密集されている地域に変貌したのである。この時期に釜山芸術大学が新設され、専門大学も既存の東明大学と合わせて二つに増えた。地方都市の一区としてはとても異例なことだが、釜山南区はソウルの新村、東崇路地域にも劣らない大学街として名を馳せるようになった。これは教育の荒野であったわずか30年前とは天と地の激変であり、市立博物館と釜山文化会館など文化施設が蝟集している釜山市南区地域は釜山圏教育、特に高等教育の先導的役割を担い、釜山地域の教育と文化の中心地に浮上、21世紀により大きな役割を果たすことであろう。